国民の検察に対する期待値が上がり、国策捜査で無理をする

国策捜査を批判する場合には、検察側の論理構造をよく押さえた上で、それと噛み合う批判をしなくては意味がない。一部に最近、国策捜査が頻発していることを「検察ファッショ」と呼び、この状況を放置すれば戦前・戦時中のように広範な国民の権利自由が直接侵害されるような事態になると警鐘を鳴らす向きもある。
しかし、私の見立てでは、この批判には論理的飛躍がある。最近、検察が政治化していることは事実だ。しかし、国策捜査との絡みでは、その政治化が広範な国民に危機を及ぼすには至っていない。国策捜査のターゲットとなるのは、一般国民ではなく、第一義的に国家の意思形成に影響を与える政治家で、その絡みで派生的にそのような政治家と親しい関係をもつ官僚や経済人だ。一般国民は、むしろ検察に対して「もっとやれ」とエールを送っているのである。より正確にいうならば、一般国民からの応援を受けることができるように検察が情報操作工作を行っているのである。
だが、そのような情報捜査工作によって、逆に国民の検察に対する期待値が上がり、その期待に応えるために国策捜査で無理をするという循環に検察が陥っている。この構造が当事者である検察官、被告人、司法記者にはなかなか見えないのである。
国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』 〜第五章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」 P.302〜