2009-03-01から1ヶ月間の記事一覧

企業は「公益」に関心がなければ、善良である責任もない

人々はまた、企業は「公益」を促進するためだとか「社会的責任」を果たすために活動しているのだという経営者たちの言い分にも気をつけなければならない。企業というものは「公益」に関心があるわけではないし、善良であることも彼らの責任ではない。企業は…

経営者は消費者を満足させ、株主に利益を提供する以上のことはすべきでない

経営者は法に従う義務があり、いかなる不正行為に対しても責任を負っている。しかし、経営者はそれ以上のことはできないし、するべきでもない。経営者の仕事は消費者を満足させ、それによって株主に利益を生み出すことである。この決まりを経営者が果たせな…

民主主義は社会問題に対応することのできる最適な方法?

民主主義は、まさにこうした社会問題に対応することのできる最適な方法である。民主主義によって市民の価値観というものが示され、消費者や投資家としての私たちの要望と、全体としてともに達成したい要望との間の調整がなされるはずなのだ。しかし、超資本…

全企業に健康保険の支給をやめさせ、その配分を政府にゆだねる

これらすべての理由から考えると、私の結論は、健康保険を雇用と切り離すべきであるというものだ。ウォルマートのような企業を健康保険が不十分だと責めるよりも、全企業に健康保険の支給をすべてやめさせ、年間一二六〇億ドルの「隠れた」政府の医療保障制…

CSRに取り組めば法律や規制による厳しい管理を避けることができる

大企業が情熱を持ってCSRに取り組んだ理由は簡単だ。それは新聞で美談になるし、人々を安心させるからである。・・・企業は自ら責任を取りますとほんのなぐさみ程度に約束しておけば、より厳しい法律や規制の必要性から人々の注意をそらしたり、人々に初めか…

政策決定プロセスは市場競争の延長線上にある

グーグル、マイクロソフト、ヤフー、IBM、サン、オラクルが、政界に毎年何千万ドルというカネを送っているのは、ロビイストであるローレン・マドックスの言葉を借りれば「政策決定プロセスは市場競争の延長線上にある」ということを理解しているからである。…

超資本主義をもたらしたのは貪欲なCEOではなく消費者であり、投資家である市民自身

こうした事態をもたらした主犯は企業の貪欲さでもCEOの無神経さでもなく、お買い得を求めてプレッシャーをかけるあなたや私のような消費者であり、ハイリターンを求める私たち投資家だったのだ。たしかいに、あなたも私もこのような成り行きを「意図した」わ…

技術革新、グローバル化、規制緩和が消費者と投資家に強大の権力をもたらした

技術革新、グローバル化、規制緩和の三つが、消費者や株主を引き寄せようとする企業間の競争を激化させ、競争が企業にコストダウンを迫る。そして終幕は、巨大寡占企業や労働組合、多くの地方都市の崩壊であり、企業ステーツマンの退場であり、民主的資本主…

経済上のゲームとそのゲームのルールの決め方の境界線を明らかにすべき

資本主義と民主主義の適正な境界線、あるいは経済上のゲームと、そのゲームのルールの決め方との間にある境界線を明らかにする必要がある。そうすることで両者の境界がきちんと守られるのだ。企業は市民ではなく、大量の契約の束である。市民としての私たち…

暴走する資本主義

マーケティング予算 企業国家アメリカで、最後まで説明のつかない支出

「企業国家アメリカで、最後まで説明のつかない支出」とは、グーグルのCEOエリック・シュミットと最後に会った時、企業のマーケティング予算について彼が使った表現だった。 『ザ・サーチ グーグルが世界を変えた』 〜第7章 サーチエコノミー〜

ザ・サーチ グーグルが世界を変えた

相手に伝わるメッセージのうち、言葉の内容そのものが占める割合は、わずか七%

話すことによって相手に伝わるメッセージのうち、言葉の内容そのものが占める割合は、わずか七%。あとは、ボディランゲージなどであることを認識しなければなりません。お互いに生身の人間であることを無視してしまうと、話しは通じたように見えても、行動は…

会話の主体は話して側ではなく、聞き手側にある

上司と部下の間に溝が生じる要因のひとつは、両者の間にリセプターの有無、リセプターの違いが介在しているということです。そのことを知らなければ、ただのものわかりの悪いおじさんと生意気な若造になってしまうということです。会話の過程で、相手のリセ…

人は自分の内側の情報を一度外に出さないと認識できない

人は会話を交わし、言葉にしてアウトプットすることで、自分のアイディアを認識することができます。人は自分の内側の情報を一度外に出さないと認識できないのです。すなわち、話す相手がいなければ、自分の思っていることにも気づけません。これが、私たち…

何を話すかに注意が向きすぎてしまい、人の話を聞くことには、価値が置かれていません

コミュニケーションは、「話し手」と「聞き手」によってつくられます。両者が話し手と聞き手の役割を持つことで成り立っています。ところが、実際には、何を話すかに注意が向きすぎてしまい、人の話を聞くことには、価値が置かれていません。 『コーチング・…

。コーチングは教えるのではなく、引き出し、考えさせる

コーチングとティーチングは違います。コーチングは教えるのではなく、引き出し、考えさせます。相手の自発的な行動を引き出すのです。ここに、マネジメントクラスの人たちがコーチングを学ぶべき理由があります。 『コーチング・マネジメント』 〜WHAT'S CO…

教えるのではない、複数の視点をもたらし、広い視野を持ち込む

教えるのではない。 複数の視点をもたらす。広い視野を持ち込む。 『コーチング・マネジメント』 〜WHAT'S COACHING P.57〜

一方通行ではなく、双方向でアイディアを検討し、生み出す

この「一方通行ではなく、双方向でアイディアを出し合い、それを検討する。行動に移すためのアイディアもまた双方向のコミュニケーションから生み出す、この一連のプロセス」を「コーチング」といいます。 『コーチング・マネジメント』 〜WHAT'S COACHING P…

アイディアを行動に移すには、生み出すとき以上のコミュニケーション量が必要

アイディアを具体化し、行動に結び付けていくには、アイディアを生み出す時以上のコミュニケーション量が必要。 『コーチング・マネジメント』 〜WHAT'S COACHING P.33〜

部下がうまくいかないのは、知識・技術が足りない、または意欲を高める方法を知らないから

コーチングとは、会話を重ねることを通して、相手に、目標達成に必要なスキルや知識を備えさせ、目標に向けての行動を促していくプロセスです。 部下がうまくいかない時は、彼らのやる気や人間性に問題があるのではありません。自分の能力に気がついていない…

コーチング・マネジメント

シンガポールは<書き言葉>を中心に見れば「国民総バイリンガル社会」ではない

シンガポールには、ほかの旧植民地と決定的に異なる点がある。ほかの旧植民地においては、英語を流暢に操れるのはほとんどが上層階級に限られているのに、シンガポールでは、新しい世代の国民が英語をある程度流暢に操れるのである。・・・<中略>シンガポ…

世界の研究の場へ参加し、書いたものにより大きな意味をもたせるには英語で書くことが必要

日本の学者たちが、今、英語でそのまま書くようになりつつある。自然科学はいうまでもなく、人文科学でも、意味のある研究をしている研究者ほど、少しずつそうなりつつある。そして、英語で書くことによって、西洋の学問の紹介者という役割から、世界の学問…

自分の読者が、自分と同じ世界を共有することのないという寂しさ

いかに漱石が自分と遠く離れた文字文化に生きていたかをまのあたりにしたとき、胸を打つのは、漱石の寂しさである。これからの自分の読者は、自分と同じ世界を共有することはないのを知りつつ生きる一人の人間の寂しさである。しかも、その寂しさは、非西洋…

<国語>は翻訳を通じて<普遍語>と同じレベルで機能するようになったもの

<国語>とは、もとは<現地語>でしかなかった言葉が、翻訳という行為を通じ、<普遍語>と同じレベルで機能するようになったものである。 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 〜三章 P.133〜

人類の叡智の蓄積は一つの<書き言葉>でなされたほうが論理に適う

その<書き言葉>による人類の叡智の蓄積は、たいがいの場合は、一つの<書き言葉>でなされたほうが論理に適う。どんな言葉で話していようと、地球に住むすべての人が一つの<書き言葉>で読み書きすれば、人類の叡智は、もっとも効率よく蓄積されるからで…

「国語」とは「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」

ここでは、「国語」を、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」を指すものとする。<国民国家>という概念が近代的な概念であるように、<国語>という概念も近代的な概念である。 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 〜三章 P.105〜

われわれは「言葉」に関して常に思考するのを強いられる

それは、一度この非対称性を意識してしまえば、我々は、「言葉」にかんして、常に思考するのを強いられる運命にあるということにほかなりません。そして、「言葉」にかんして、常に思考するのを強いられる者のみが、<真実>が一つではないということ、すな…

書くという行為は、目の前にある世界を、見知らぬ空間へと届かせ、言葉を共有してもらうこと

書くという行為は自慰行為ではありません。書くという行為は、私たちの目の前にある世界、私たちを取り巻く世界、今、ここにある世界の外へ外へと、私たちの言葉を届かせることです。それは、見知らぬ未来、見知らぬ空間へと、私たちの言葉を届かせ、そうす…