世界の研究の場へ参加し、書いたものにより大きな意味をもたせるには英語で書くことが必要

日本の学者たちが、今、英語でそのまま書くようになりつつある。自然科学はいうまでもなく、人文科学でも、意味のある研究をしている研究者ほど、少しずつそうなりつつある。そして、英語で書くことによって、西洋の学問の紹介者という役割から、世界の学問の場に参加する研究者へと初めて変身を遂げつつある―世界の<読まれるべき言葉>の連鎖に入ろうとしつつある。実際、「国際的に活躍する」などという言葉が意味をもつのは、国内向けにしか活躍できない分野に身をおく学者の話であり、学問をするとは、苦労して英語で書き、なんとか国際的に活躍するしかないところまで、現実は動き始めているのである。たとえ日本にかんして何かを書くにしても、大きな問題を扱えば扱うほど、英語で書いたほうが意味をもつのだから当然である。日本の学者たちが英語で書きはじめつつあるその動きは今はまだ水面下の動きでしかなく、町を行く人tには見えない。だが、あるときからは、誰の目にも明らかになるであろう。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 〜六章 P.256〜