2009-03-01から1日間の記事一覧
シンガポールには、ほかの旧植民地と決定的に異なる点がある。ほかの旧植民地においては、英語を流暢に操れるのはほとんどが上層階級に限られているのに、シンガポールでは、新しい世代の国民が英語をある程度流暢に操れるのである。・・・<中略>シンガポ…
日本の学者たちが、今、英語でそのまま書くようになりつつある。自然科学はいうまでもなく、人文科学でも、意味のある研究をしている研究者ほど、少しずつそうなりつつある。そして、英語で書くことによって、西洋の学問の紹介者という役割から、世界の学問…
いかに漱石が自分と遠く離れた文字文化に生きていたかをまのあたりにしたとき、胸を打つのは、漱石の寂しさである。これからの自分の読者は、自分と同じ世界を共有することはないのを知りつつ生きる一人の人間の寂しさである。しかも、その寂しさは、非西洋…
<国語>とは、もとは<現地語>でしかなかった言葉が、翻訳という行為を通じ、<普遍語>と同じレベルで機能するようになったものである。 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 〜三章 P.133〜
その<書き言葉>による人類の叡智の蓄積は、たいがいの場合は、一つの<書き言葉>でなされたほうが論理に適う。どんな言葉で話していようと、地球に住むすべての人が一つの<書き言葉>で読み書きすれば、人類の叡智は、もっとも効率よく蓄積されるからで…
ここでは、「国語」を、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」を指すものとする。<国民国家>という概念が近代的な概念であるように、<国語>という概念も近代的な概念である。 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 〜三章 P.105〜
それは、一度この非対称性を意識してしまえば、我々は、「言葉」にかんして、常に思考するのを強いられる運命にあるということにほかなりません。そして、「言葉」にかんして、常に思考するのを強いられる者のみが、<真実>が一つではないということ、すな…
書くという行為は自慰行為ではありません。書くという行為は、私たちの目の前にある世界、私たちを取り巻く世界、今、ここにある世界の外へ外へと、私たちの言葉を届かせることです。それは、見知らぬ未来、見知らぬ空間へと、私たちの言葉を届かせ、そうす…
私はくり返し思った。 人はなんとさまざまな条件のもとで書いているのであろうか。 だが、さらにくり返し思うことがあった。 人はなんとさまざまな言葉で書いているのか。 そして、その思いは、作家たちと一緒にいるあいだに、どんどんと深まるばかりであっ…