シンガポールは<書き言葉>を中心に見れば「国民総バイリンガル社会」ではない

シンガポールには、ほかの旧植民地と決定的に異なる点がある。ほかの旧植民地においては、英語を流暢に操れるのはほとんどが上層階級に限られているのに、シンガポールでは、新しい世代の国民が英語をある程度流暢に操れるのである。・・・<中略>シンガポール人の<話し言葉>の英語は「シングリッシュ」とよばれるが、<書き言葉>は規範的な英語である。シンガポールは、まさに一見したところ「国民総バイリンガル社会」なのである。
だが、その「国民総バイリンガル社会」も、実態を近くで見れば、「あれも、これも」の困難が、明らかになってくる。シンガポールでは、国民教育の多くが英語を学ぶのに割かれているだけではない。しかも、英語での授業の比率は、小学校、中学校、高等学校と上のレベルに行くにつれて増えていく。大学に至っては、ほとんどの授業が英語で行われる。民族語も学ぶことができるが、基本的には、言葉や文学として学ぶのであり、それらの言葉でもって学問をする訳ではない。民族語は政府によって保護され、「公用語」の地位を与えられ、学ぶことが推奨されているにもかかわらず、例外的な教育を受けない限り、事実上は<現地語>でしかないのである。・・・<中略>
日本人が、シンガポールのような国に「国民総バイリンガル社会」の理想を見いだすのは、ほかでもない、言葉というものを、<話し言葉>を中心に見ているからである。このことは、強調しても、しすぎることはない。シンガポール人は英語と民族語と両方の言葉を話す。だが、言葉を<書き言葉>を中心に見れば、シンガポール人は英語人である。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 〜七章 P.280、281〜