他人にとって「有益」でない部分も認めて欲しいという願望

だけど、これは人間観の問題になりますが、僕にはどうしても、一個の人間の全体がそんなに社会的に「有益」であり得るとは思えない。僕だってその内実は、他人にとって何の役にも立たない部分が大半ではないかと思う。だけど、その役に立たない部分も含めて僕であるし、それを含めて人とコミュニケートし、承認されたいという願望はやっぱりあるんです。僕は先ほど、身辺雑記的なブログの内容について、「当人以外にとってはどうでもいいようなこと」とややネガティブな言い方をしましたけど、それでも、そういうことを書きたくなってしまう心情も、分かるんですね。現実のコミュニケーションが、そうしてますます、個人の「役に立つ」一面にしか興味を示さなくなって、それ以外の思考や言動、あるいはそうした人そのものを閉め出しつつあるのだとすれば、その無益さにも貴重な意味があると考えるべきだという気がします。
ウェブ人間論』〜第一章 P.54〜