固定観念にしばられるのを避けるために若い人を意識して見る

私は今31歳で、年下の人と対戦する機会が増えてきました。そこで思うのは、後輩の将棋をしっかりみなければいけないということです。例えば、四段五段の人や、まだプロになっていない人と指した時に、その人の手がわからないことが時々あるんです。どういう意図で指した言ってなのか分からない。対局が終わって、あれこれ考えたりしていると、あっ、こういう方針だったのかと気づくわけです。
できるだけ情報を集め、最新の型も研究しているつもりですが、それでもこういうことがある。恐らく私の中にも固定観念が形作られているのでしょう。プロの将棋界は百数十人の世界ですが、いつも対戦する相手は10人程度。同じようなメンバーの中で指し続けているうちに、その中である種の暗黙の了解のようなものが出来上がる。これはきれいな手であり、これは筋が悪いといった仲間内の共通認識が形成されていく。
このままでは変化に対応できなくなってしまう。それだけは避けたいですから、若い人たちの将棋は極力意識して見るようにしています。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第一章 羽生義治と「変わりゆく現代将棋」 P.33、34〜

「知のオープン化」と「勝つこと」をいかに両立させるかがインターネット時代の思想の本質

「知のオープン化」と「勝つこと」をいかに両立させるか。それこそが、インターネット時代の思想の本質のひとつである。羽生はインターネット時代の思想を、その時代が到来するよりも早い時期から、『羽生の頭脳』のオープン化と七冠制覇の両立という形で有限実行していたのだ。『羽生の頭脳』が書き始められた一九九二年には、インターネット時代は到来しておらず、「情報技術(IT革命)」はまだ始まっていなかった。「情報技術(IT)革命」が到来する前に、その上に乗るべき内容はどうあるべきかについて、「知のオープン化」という「情報(I)革命」の思想を、羽生は『羽生の頭脳』に凝縮した形で表現していたのだ。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第一章 羽生義治と「変わりゆく現代将棋」 P.41〜

無駄なようでも創造性を生もうとする営みを続ける以外、長期的には生き残るすべはない

羽生が最後に言う「創造性以外のものは簡単に手に入る時代」とは、産業の世界の「何もかもがコモディティ化していく時代にどう生き残るか」という議論そのものである。
厳しいながら、権利のない世界のほうが進歩が加速する。だから、進歩を最優先事項とするなら、情報の共有は避けられない。そういう新しい世界では、「効率だけで考えたら、創造なんてやってられない」から、一見モノマネをして安直に生きるほうが正しいかのようにも見える。「状況への対応力」で生き抜くのが理にかなっているようにも見える。しかし、無駄なようでも創造性を生もうとする営みを続ける以外、長期的には生き残るすべはない。突き詰めていけば「最後は想像力の勝負になる」のだと、羽生は考えるのである。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第一章 羽生義治と「変わりゆく現代将棋」 P.46〜

技術だけが進化し続けても、アプリケーションがうまく生まれず、世の中は変わらない

誰かが未来を先取りした酔狂な人体実験を繰り返さないと、技術だけが進化し続けても、アプリケーションがうまく生まれず、世の中は変わらない。そういうことがよくある。それは私がシリコンバレーで学んだ大切なことの一つだ。だから、さまざまな素晴らしい出会いや勝負の帰趨に誘われて新潟までやってきたからには、私がその人体実験の先鋒として「ベストを尽くして見よう」と思ったのだ。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第三章 将棋を観る楽しみ P.90〜

才能あふれる人でも「機会の窓」が開くことは多くない

どんなに才能あふれる人であろうとも、人生における「機会の窓」(Windows of opportunity)が開くことはそれほど多くはなく、人によってはたった一回だけというケースもあるということだ。日本の「一期一会」という言葉にも通ずるが、一瞬開いた「機会の窓」を活かせるか否か。残酷なことだけれど、それが人生を決定する。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第六章 機会の窓を活かした渡辺明 P.216、217〜

曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか

いかに曖昧さに耐えられるか、ということだと思っていんですよ。曖昧模糊さ、いい加減さを前に、どれだけ普通でいられるか、ということだと思うんですよ。
シリコンバレーから将棋を観る』 〜第七章 対談 羽生義治X梅田望夫 P.244〜