経済上のゲームとそのゲームのルールの決め方の境界線を明らかにすべき
資本主義と民主主義の適正な境界線、あるいは経済上のゲームと、そのゲームのルールの決め方との間にある境界線を明らかにする必要がある。そうすることで両者の境界がきちんと守られるのだ。企業は市民ではなく、大量の契約の束である。市民としての私たちに課せられた大きな挑戦は、企業がそのルールを勝手に決めることを止めさせることだ。超資本主義が民主主義に大きな影響を与えることを防ぐことこそが、変革への唯一の建設的な方策である。
『暴走する資本主義』 〜序 パラドックス P.18〜
超資本主義をもたらしたのは貪欲なCEOではなく消費者であり、投資家である市民自身
こうした事態をもたらした主犯は企業の貪欲さでもCEOの無神経さでもなく、お買い得を求めてプレッシャーをかけるあなたや私のような消費者であり、ハイリターンを求める私たち投資家だったのだ。たしかいに、あなたも私もこのような成り行きを「意図した」わけではなく、これほど多くの人たち(たぶん私たち自身と子どもたちも含まれる)の給与や福利厚生にこのような結果がもたらされたこともけっして快く思っていないだろう。しかし、私たちが頭の中で消費者と投資家としての悩みと市民としての脳みそをつながない限りは、私たちはこういう成り行きにまったく無関心でいられてしまう。企業やCEOやウォール街やウォルマートといった二つの脳みそをつないでいる存在を、言葉で非難しているほうがはるかに簡単だからである。
『暴走する資本主義』 〜第3章 我々の中にある二面性 P.141、142〜
CSRに取り組めば法律や規制による厳しい管理を避けることができる
大企業が情熱を持ってCSRに取り組んだ理由は簡単だ。それは新聞で美談になるし、人々を安心させるからである。・・・<中略>企業は自ら責任を取りますとほんのなぐさみ程度に約束しておけば、より厳しい法律や規制の必要性から人々の注意をそらしたり、人々に初めからたいした問題ではなかったのだと思わせることもできる。行動規範を定め品行方正を公約した企業は、社会的責任の履行に向けて重要な第一歩を踏み出したように見えるが、消費者や投資家をひきつけて囲い込まねばというプレッシャー自体は少しも和らいでいない。超資本主義においては、彼らは社会的に責任を「果たせない」のだ。少なくとも意義のある大きな責任は―。
『暴走する資本主義』 〜第5章 民主主義とCSR P.199〜
民主主義は社会問題に対応することのできる最適な方法?
民主主義は、まさにこうした社会問題に対応することのできる最適な方法である。民主主義によって市民の価値観というものが示され、消費者や投資家としての私たちの要望と、全体としてともに達成したい要望との間の調整がなされるはずなのだ。しかし、超資本主義を加速させたのと同じ競争が、政治決定プロセスにまで波及するようになった。
『暴走する資本主義』 〜第6章 超資本主義への処方箋 P.288〜
経営者は消費者を満足させ、株主に利益を提供する以上のことはすべきでない
経営者は法に従う義務があり、いかなる不正行為に対しても責任を負っている。しかし、経営者はそれ以上のことはできないし、するべきでもない。経営者の仕事は消費者を満足させ、それによって株主に利益を生み出すことである。この決まりを経営者が果たせなかった場合や競争相手よりもうまくやれない場合には、経営者は消費者や株主から罰せられ、株主は他の投資先を探すのだ。
『暴走する資本主義』 〜第6章 超資本主義への処方箋 P.293〜
企業は「公益」に関心がなければ、善良である責任もない
人々はまた、企業は「公益」を促進するためだとか「社会的責任」を果たすために活動しているのだという経営者たちの言い分にも気をつけなければならない。企業というものは「公益」に関心があるわけではないし、善良であることも彼らの責任ではない。企業は売上げと利益を上げるために、ブランドイメージを良くしようと善行を積むことはあるかもしれないし、本業にいそしんだ結果、偶然に社会貢献という副次的効果を生むこともある。しかし、彼らは善良であると思われたいから、良いことをするわけではないのである。
『暴走する資本主義』 〜第6章 超資本主義への処方箋 P.296〜